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これは私のオフィスに掛けてある恩師の色紙に書かれている言葉です。
その50年前の恩師の助けを借り、「私の信条」を書かせていただきます。

人生の転機

 大学を卒業し希望通り商社マンとして社会人のスタートを切りましたが、その後私にとって大きな転機が二回ありました。

第一の転機~米国での経験

帰国直前州知事就任パーティーにて

 帰国直前州知事就任パーティーにて最初の転機は今から25年程前、入社15年が経過し営業マンとして仕事に自信が持てるようになった頃、担当していた仕事の関係で米国南部に子会社の設立を提案したら、「お前がやれ」と言うことになってしまい、日本人がいない南部の小都市で製造業を経験することになりました。
それまで工場の運営はもとより、経理、人事総務の経験もないものがいきなり米国で中小企業の経営者として工場の建設、人員の採用、業務フローの確立、製造品質管理、決算書の作成など分らない事ばかり。どうすればいいのと先輩にアドバイスを求めたら「熱心な素人は玄人に勝る」とごく簡単に励まされ、「それじゃ何とかなるだろう」と自己流で通すことに決めました。
「ジタバタ」を繰り返すうちに6年が経過し、米国中部に第二工場の建設を始めたころ父親から急に太陽電線を継いでほしいとの話が出てきました。中小電線メーカーより大きな世界でやる方が良いと言われていたので、今頃になって何で急にと一旦は断ったのですが、「長年勤めてくれた従業員がいるからな」と説得され、相当悩んだ末に工場の稼動に目処をつけたあと帰国し22年間の商社マン生活を終えることになりました。

第二の転機~バブル崩壊期からのスタート

 私が米国より帰国したのはバブルの崩壊した無惨な日本で、中小電線メーカーというこれも全く異なる環境でのスタートとなりました。最初のころは顧客訪問をしても、業界団体に顔を出しても、社内の会議に出ても外国語のように全く理解できません。それじゃ「これも自己流でいこう」と決めて太陽電線でのスタートを切りました。周りの人々も「変った人間がやってきたな」と思ったようです。バブル崩壊は太陽電線には厳しい試練でしたが、社内に私の考えを伝えるには良い環境だったのでしょう。「商社に入ってなんでこんなことをしているのだろう」と思っていた米国での経験がなければ太陽電線の経営はうまく出来なかったでしょうから、人生の流れは不思議なものです。

太陽ケーブルテック株式会社の経営

 太陽電線は父親が23年間も社長した会社です。ワンマンであったと聞いていました。ですから自分はそれを変えるべきだと思い「組織経営」を説きました。しかし環境の変化はめまぐるしく、「失われた10年」、「ITバブル」、「BRICSの台頭」、「リーマンショック」などを経験し、従業員に「変化だ、スピードだ、成長だ」と叫んでいるうちに18年が経過し、いま気が付くと組織経営とは程遠い現状に愕然としています。もう少し冷静に考えると私は25年前からずっとワンマンだったし、結局はそれ以上の経営者になれない能力相応なのだと思います。しかし2年前、創業85年で名前を「太陽ケーブルテック」と換え、会社が国際化を迫られる中、スピードのある組織経営体制を構築することが会社の存続には不可欠だと痛感するこのごろです。

経営者はどうあるべきか?

 従業員の為に「希望と勇気」を持ち続けること、 「一筋の道」とは一本道ではなく「与えられた場」が一筋の道であり、そこで経営者として活かされていることに感謝する。
50年経って恩師の言葉が多少理解出来るようになったと思います。

更新日:2010年7月8日

経歴

谷口 直毅(たにぐち なおき)

略歴

昭和22年生
昭和45年 住友商事株式会社 入社
昭和49~57年 米国住友商事ニューヨーク駐在
昭和60年~平成4年 住友商事子会社(米国)社長
平成4年2月 住友商事退職 同3月太陽電線株式会社入社
平成4年~15年 太陽電線株式会社(現 太陽ケーブルテック株式会社)社長、CEO
2003より現職
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